誤植の山 [学校]
誤植、という言葉自体が死語かもしれない。活字時代の言葉だからだ。誤記と言うべきか。
朝、全校生徒に配られた学校便覧を見て、すぐに沿革小史の中の「祝賀会」が「祝賀海」となっていることに気がついた。
もう少し時間をかけて見ると、他にも4カ所くらい誤植が見つかった。
この原板を作った教頭に話をしたら、「昨年のものから上書きして作っているが、印刷して配る前に、もう少し見てもらった方が良かったかもしれない」とのこと。
まあ、こんな所を気にとめる者はほとんどいないから、かくして、誤りは積み重なっていくものなのだろう。
朝、全校生徒に配られた学校便覧を見て、すぐに沿革小史の中の「祝賀会」が「祝賀海」となっていることに気がついた。
もう少し時間をかけて見ると、他にも4カ所くらい誤植が見つかった。
この原板を作った教頭に話をしたら、「昨年のものから上書きして作っているが、印刷して配る前に、もう少し見てもらった方が良かったかもしれない」とのこと。
まあ、こんな所を気にとめる者はほとんどいないから、かくして、誤りは積み重なっていくものなのだろう。
『高木貞治 近代日本数学の父』 [学校]
岩波書店から、昨年12月に標記の新書が出版された。
「没後50年初の評伝」だと言う。
そう言えば、まとまった伝記は読んだことはない。
高木先生が亡くなったのは、1960年だから、どちらかというと、自分にとっては同時代人ぎりぎりの感じがしていた。もちろん活躍されたのは戦前から戦後のことであり、わたしの生まれる前のことである。
高木貞治は、菊池大麓-藤澤利喜太郎という東京大学での数学門下で学び、日本において初めて世界的な業績を成し遂げた数学者だった。
その著作は広く、有名な教科書「解析概論」から、庶民向けの「近世数学史談」「数学雑談」などに及ぶ。
しかしながら、江戸から明治期に欧米から知識を輸入した先達たちの勉強量には恐れ入る。
高木も、ドイツ語、英語、フランス語をよくし、著名な論文「類体論」はドイツ語で書いている。
個人の資質はもちろんだが、むしろ当時の世の中がそのような人物を必要としていたのかもしれない。
「没後50年初の評伝」だと言う。
そう言えば、まとまった伝記は読んだことはない。
高木先生が亡くなったのは、1960年だから、どちらかというと、自分にとっては同時代人ぎりぎりの感じがしていた。もちろん活躍されたのは戦前から戦後のことであり、わたしの生まれる前のことである。
高木貞治は、菊池大麓-藤澤利喜太郎という東京大学での数学門下で学び、日本において初めて世界的な業績を成し遂げた数学者だった。
その著作は広く、有名な教科書「解析概論」から、庶民向けの「近世数学史談」「数学雑談」などに及ぶ。
しかしながら、江戸から明治期に欧米から知識を輸入した先達たちの勉強量には恐れ入る。
高木も、ドイツ語、英語、フランス語をよくし、著名な論文「類体論」はドイツ語で書いている。
個人の資質はもちろんだが、むしろ当時の世の中がそのような人物を必要としていたのかもしれない。