昭和世代とは [雑感]
この間、同年代の同僚と話していたら、こんな話が出た。
「結局私たちの生まれた年って、つい10年くらいまでは戦争やっていて、殺したり殺されたり平気でしていた時代なんだよね。10年なんてほんとにちょっと前のことでしょ。そんな時代に生まれて育ったんだから、今の世代とはずいぶん違っていて当然。」
なるほどなぁと思った。わたしは1957年生まれだから、両親はしっかり戦時中を生きてきたわけで、戦後世代ではあるが、どこかで戦争の跡を引きずっているのかもしれない。
まあ、それにしても、今と比べると何もなかった。小学校は木造平屋で、断熱もしっかりしていないので、冬氷点下25度だったろうか、それ以下になると石炭ストーブでも校舎内が暖まらないので、臨時休校になった。体育館には暖房すらなかった。だから、氷点下でも体育の授業は普通に行った。さすがに体育着だけでは寒すぎるので、股引を履いたままだった。学校への通学も除雪が十分ではなかったから、長靴に雪が入らないように毛糸で編んで両側にゴム糸を入れた筒のようなものをズボンと靴の間にはいて通った(名前は覚えていない)。これは、当時の旭川市の話である。
「結局私たちの生まれた年って、つい10年くらいまでは戦争やっていて、殺したり殺されたり平気でしていた時代なんだよね。10年なんてほんとにちょっと前のことでしょ。そんな時代に生まれて育ったんだから、今の世代とはずいぶん違っていて当然。」
なるほどなぁと思った。わたしは1957年生まれだから、両親はしっかり戦時中を生きてきたわけで、戦後世代ではあるが、どこかで戦争の跡を引きずっているのかもしれない。
まあ、それにしても、今と比べると何もなかった。小学校は木造平屋で、断熱もしっかりしていないので、冬氷点下25度だったろうか、それ以下になると石炭ストーブでも校舎内が暖まらないので、臨時休校になった。体育館には暖房すらなかった。だから、氷点下でも体育の授業は普通に行った。さすがに体育着だけでは寒すぎるので、股引を履いたままだった。学校への通学も除雪が十分ではなかったから、長靴に雪が入らないように毛糸で編んで両側にゴム糸を入れた筒のようなものをズボンと靴の間にはいて通った(名前は覚えていない)。これは、当時の旭川市の話である。