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「がんの語り手養成講座」を受講 [雑感]

 NPO法人キャンサーサポート北海道主催の「がんの語り手養成講座」を受講した。

 場所は、「札幌市民活動プラザ星園」。昔の星園高校の跡だ。中に入ったことは無かったが、元の校舎をそのまま使用しているようだ。受付は、9時半から。10時、開会。
 理事長の大島寿美子さん(北星学園大学教授)より挨拶。その後、受講者自己紹介、大島先生の短い講義。その後、自己履歴の作成、発言原稿作成。
 12時から1時間の休憩を挟み、3時半頃から、各自発表、講評。修了証を貰い、記念撮影。終了したのは4時半を過ぎていた。

 以下添削を受けたわたしの原稿。

 わたしと中咽頭癌との関わり

 2010年の初夏、職場である中学校の1学年の恒例となった野外学習があった。要は野外炊さんである。その際、右首に小さなしこりのような物があることに気がついた。
 特に熱もなく、痛みも無いので、2ヶ月毎に高血圧治療で通っている病院の診察の折に、ついでに聞こうと考えていた。
 いつも通り問診を受けて、医師に「このしこりは何でしょうね」と聞くと、「熱はありますか、痛みは?」と聞かれたので、「いえ、ありません」と答えると、直ちに、X線検査やCT、血液検査などを指示された。
 「一体何の検査なんですか」と聞くと、「癌の疑いです」と言う。あっけらかんとしたものだ、と思った。だが、その時の病院の検査では、癌は発見できなかった。
 しかし、2週間ほどして、病院から電話が来た。血液検査の結果から、やはり、癌の疑いがあるという。医師からは、「これ以上の検査は、ここでは出来ないので、大学病院を紹介します」と言われた。何だか事態は悪くなる一方のようだが、自分では、癌という病気が自分に取り付いているとは信じがたかった。明確な証拠がないからだ。
 職場から近い北大病院を紹介して貰い、紹介状を持って行くと、まず腫瘍内科で検査を受け、次に耳鼻咽喉科に行った。耳鼻咽喉科では、首のしこりを見た瞬間に、「咽頭癌ですね」、と言われ、様々な検査を受けた。針を射し入れ細胞をとる「穿刺」による生検も受けたが癌細胞は出てこない。しかし、「癌には間違いない」と言われ、検査入院となった。結局、「中咽頭癌」と診断が出たのは、夏の盛りも過ぎた9月中旬だった。ただ、原発(癌の元)が依然としてはっきりしない、自分でも半信半疑の入院だった。体のどこにも異常が感じられないからだ。
 10月から入院して治療に入ることになり、職場の残務整理に追われた。病気休暇制度を使い、代替の先生の目途もついた。この段階で、自分が病人であるとの自覚は、まだ、ほとんど無かった。いわゆる痛みなどの「自覚症状」が全く無く、普通に働いていたからだ。入院して給与はどうなるのか、などの心配はあったが、癌などの四大疾病については、1年間365日分は減額されずに支給されるとのことで、家族に経済的心配はさせずに済むと思った(ちなみに、この制度は翌年から改悪され、90日間となった)。
 10月中旬には、予防的に右頸部のリンパ節摘出手術と扁桃腺(右)の摘出手術を受けた。結局、原発がはっきりしたのは、消化器内科で食道と胃の検査を胃カメラで行ってからだった。耳鼻咽喉科の内視鏡は鼻から入れる細いものなので、解像度が低くて分からなかったのだ。
 PET検査でも見つからなかったのだから、大きさは、5㎜未満とも言われた。しかしながら、首にしこりが出来ているのは癌の転移なので、ステージはⅢ、5年生存率は70%だと言われた。主治医に「治りますか」と聞くと、「十分戦えますから、頑張りましょう」と言われ、先生がそう言うならと少し安心した。
 本格的な治療に入ったのは、11月下旬からだった。放射線治療と抗癌剤治療の両面作戦。放射線治療に入る直前に歯科の検査を受け、左下の親知らずを抜いたが、これが後遺症を生むことになる。
 放射線治療は、最初は痛みも何も伴わない。だが、喉に照射するので、徐々に、口の中の粘膜が放射線に冒され、酷い痛みが出てくる。味覚も消失してくる。首の皮膚も黒く焼けたようになり、薬を塗ってガーゼを巻いて過ごすことになる。こすってはダメなので、風呂にも入れない。これらは、事前に説明を受けていたことだが、実際に自分の身に起きてくると、何でこんな目に遭わなければならないのか、「不条理」としか思えない。
 抗癌剤による治療も同時に開始される。髪の毛が抜けるのなら事前に坊主頭にしておこうかと、医師に聞くと、「シスプラチンという薬なので毛髪は抜けませんよ」と言われ、実際、毛髪はそのままだった。
 主治医の判断で、胃ろうを作ることになった。胃ろうとは、おへその上に穴を開けて胃までカテーテルを貫通させ、栄養剤を直接入れるもので、「いずれ口から物を食べることは困難になるから」と。確かに12月中旬から食べることが出来なくなって、3食が胃ろうからの栄養摂取となった。1回の食事は、1パック200mlが3個。これで600kcalとなる。最後には、水も喉を通らないので、栄養剤に混ぜて、水分補給をした。
 喉は依然として焼けて酷く痛いので、普通の鎮痛剤から麻薬系の物に変わった。まだ、口からゼリー等を食べられるときは、麻薬の入った薬をまず飲み、喉を麻痺させてから飲む。
 ある意味、胃ろうを作ったのは、私の場合、正解だった。元気に食事をしていた同じ病室の人が、だんだん食べることが出来なくなって、憔悴して行く姿を何度も見た。
 抗癌剤による治療を6コース(6週間)、放射線治療を35回受けて、私の治療は終わった。だが、まだ口から物を食べることは出来ない。水は何とか飲めるが、他の飲料水を飲んでも、何の味も感じない。味覚が消失しているのだ。また、唾液がほとんど出ないので、常に水筒を手元に置いておかないと、話をしても喉が詰まって続かなくなる。体重も、62㎏から52㎏まで減った。入院中は暇なので、体重のグラフを作っていたが、なだらかに減るのではなく、増えたり減ったりして下降していく。これは、抗癌剤の治療のせいで、シスプラチンは腎臓に悪影響を及ぼすので、大量に輸液を点滴して、尿を出すことで、残った抗がん剤を体外へ出すのだ。1日に4リットルの尿を出すのだから、体重も増減するわけだ。
 年が明けて、2011年の2月に退院したが、まだ食事が出来ないので、栄養剤を一月分持たされた。一日三食各3パックだから、30日分で9パック×30=270パックだ。段ボールがいくつにもなった。
 主治医から、「職場復帰は4月から」と言われたので、自宅軟禁のようで、非常に暇だった。しかも、3月11日には、あの東日本大震災が起きた。テレビのすべての番組に、笑えるものがなくなった。気が滅入るとともに、痛み止めの麻薬系鎮痛剤も減らしていった時期だったので、死に至る願望すらわいてきた。主治医から、安定剤を処方して貰って、何とか落ち着いた。この頃には、職場復帰のために口から物を食べることを始め、胃ろうも抜いて貰った。 
 2011年の4月1日から職場復帰が出来た。この頃には、ほとんどの物が食べられるようになっていた。しかし、まだ味覚は戻っていない。ほんの少し味を感じたのは、それから数週間後だろうか。あるとき外に出ていて、買って来て食べた三色パンのそれぞれの味がうっすらと感じることが出来たのだ。これは、まだ回復の見込みがあるな、と始めて嬉しくなった。
 治療終了から、5年が過ぎて、医師から完治宣告を受けたが、味覚はいまだに正常なときの7割程度の回復だろうか。毎日亜鉛とビタミンCを飲んで、味覚低下を防いでいる。唾液の分泌はこれ以上は良くならない。したがって、いつでも、水筒は手放せない。話をしなくとも、口の中は、乾いてくるのだ。また、放射線の影響で、抜歯をすると肉が盛り上がらなく、塞がらないので、極力虫歯を防ぐ必要がある。三食後の歯磨きは習慣になった。
 癌が見つかってから8年。治療後、再発もなく、今も現職として教壇に立っている。これも、治療と家族の協力のおかげと感謝したい。
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