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年越し [雑感]

 今年は自分の家で年越しを迎える。

 いつもは妻の実家に行くのだが、遠くまで行く元気が無い。就職して独立している娘も正月休みで帰ってきているので、家族4人での年越しとなる。
 今年は自分にとってはあまりいい年では無かった。結局入院とリハビリで2学期一杯仕事を休んだ。何の病気かなかなか分からなかったことも今となれば気になる話だ。5月下旬から腰が痛かったのだが、GWに家族旅行で函館・松前まで長距離運転したので腰痛になったのだろうと思っていた。整形外科に行って薬を貰っていたのだが、まさかお腹の問題とは思わなかった。医者も分からないのだから仕方が無いのかもしれないが。X線写真は撮っていたが腰椎の問題と診断されていた。8月17日に猛烈に痛みが増した後は2日間で3回救急車に乗って4つの病院を転院した。2件目のMRI検査で腰椎に異常は見当たらないが、腰椎のすぐ前の腹部に血腫のようなものがあると指摘され、3件目の病院で腹部CTを受け、腹部大動脈瘤破裂と診断されて、心臓血管外科のある4件目の病院のICUへ直行となった。看護師さんもそれぞれの病院から2度ついてきてくれた。大出血が起きたらすぐ死んでしまうから、念のための申し送りだろうか。まだ命があったせいか、感染性も疑われ培養検査などの結果、翌日が手術となる。
 手術が無事に終わったのは幸いだったが、ICUでの生活もきつかった。ここのICUは12床ほどの開放病棟で、カーテンなどの個別の仕切りも無い。昼夜複数の看護師と医師がいて、夜もそこそこ明かりがついているし、何よりモニターからの警告音や他の機械音がしきりと聞こえるのでうるさくてぐっすり眠れない。そして、体中に管がついている。下は導尿カテーテル、腹部より排血などを出すためのダグラス窩からのドレーン、首には主に栄養点滴のための中心静脈カテーテル、左手にも2本位点滴の管がついていた。さらにモニターにも線で繋がれている。身動きは禁止されているし、体も動かせなくなった。便は紙おむつだ。動かせるのは顔と腕だけだが、しばらくは寝る際に、管を無意識でも触ったり抜いたりしたら命に関わるため、手にはミトン状の手袋をつけ、腕はベッドの柵にひもで固定された。(妻は病院からの「身体抑制の同意書」にサインをしていたようだ。)寝返りも出来ないので、2時間毎に看護師さんらが体の向きを変えに来る。そのたびに目が覚める。これをしないと床擦れになると言うのだ。もちろん食事も出来ない。点滴だけだ。4日目くらいから呼吸不全になると人工呼吸器を口から入れられたので、話も出来ない。そういえば術後2日目くらいからせん妄が起きたようで、2日間位ほとんど寝て夢を見ていた。時に起きて家族とも話しはしたと言うが覚えていない。食事もないので家に帰りたいと言っていたと言う。夢の中で同じようなことを言っていたからそうなのだろう。2日目の最後の夢の終わりで息が苦しくなって意識がなくなったのを覚えている。その後が人工呼吸器だったのだ。ICUの良いところは、ナースコールを押さなくても手さえ上げれば誰かしら来てもらえることだろうか。一応その日の担当看護師(1日2回交代)は決まってはいるが、誰かかしら看護師がすぐ近くにいるからだ。腹の回復は順調だったが、体が動かなくなり、歩くためのリハビリが続いた。最初は歩くどころかベッドから起き上がる練習からだった。横になり腕で体を持ち上げるのだ。次にベッドの縁に座る、ベッドから降りて車椅子に座る、立って体重計に乗る、まだ色んな管がつながっているので点滴棒につかまりながら数メートル歩いてみる、とこんな感じだ。だが最初からベッドにいたので目の前のカウンターしか見えず周りの様子が分からなかったが、車椅子に座った時は、ベッドの後ろに窓があることが分かり、しばらくぶりに、ちょうど快晴だった外の景色を見ることが出来て久しぶりに感動した。見えるのは道路と車だけなのだが、この道路の数キロ先には勤めている学校があるのだ。またリハビリでは、呼吸機能の障害からか痰が溜まるので、咳をして痰を出すやり方も教わった。だが多くの場合は、看護師さんに気管支にチューブを入れて機械で吸引して貰った。これはICUを出て一般病棟に移っても肺機能が正常になるまで続いた。これも結構辛い。痛いのだ。
 わたしの腹部大動脈は、通常直径2センチくらいのものが6センチくらいに膨らんでいたようだ(瘤)。これが破裂したが穴が背部だったので筋肉などの組織が大出血を止めたらしい。それでも4.5センチほど裂けていたという。この病気の場合、病院に来る前に半数が死亡し、手術室に入るまでにさらに半数が死亡して、生存率は20%となると言う。手術は破れた血管を人工血管に置き換えるものだったが、後で手術説明書を読むと手術での死亡率は50%だとある。妻は聞いていたのだろう。結局最終生存率は10%となる。医師からは運が良かったとしか言いようがないと言われた。
 人生とは儚いものだと思った。どんなに頑張っても死んだらお終いだ。そして仕事の代わりはいくらでもいる。でも、家族で生きていくためには、働かなくてはならない。自信はあまりないが来年からは復帰の努力をしなければ。
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