体の具合 [健康]
悪くなってはいないが、良くもなっていない。
2010年の「中咽頭癌」の放射線と抗癌剤による治療後、唾液の分泌が良くないので常に氷水を入れた水筒を持ち歩いているし、味覚も落ちた。それでも、退院後は味覚が0だったのだが、今では70%位に回復しただろうか。また、治療中は胃瘻を通した栄養剤の点滴が後半長く続いたせいか、胃袋が小さくなり、口から食べられるようになっても量が減った。以前の半分ほどか。家族で外食に行っても、丼物でも何でも半分しか食べられないので、半分は最初から分けて食べて貰う。
2013年、放射線治療の後遺症と言える「左下顎放射線性骨髄炎」で、左下顎の一部を離断した影響で、その部分の神経が無くなり知覚が消失した。また、舌の左三分の一ほどが麻痺するようになり、食事の咀嚼と発声に苦労するようになった。これは、時間が経っても治らないだろう。口もあまり開かなくなったので、ハンバーガーは食べられない。合唱もできない。
2009年から発症していた右眼の「中心性漿液性網脈絡膜症」はずっと治らず、2014年にレーザー手術で漿液の漏出点を止めて、その後、症状の進行は無くなったが、右眼の視力は矯正で0.7程度となり、視野中心部の色覚はほとんど失われた。赤・青・黄色の判別ができないのだ。だから、右眼で信号機を見ても、光が着いている位置だけでしか分からない。左目が矯正視力1.5で色覚も正常だから何とかなっているが、右眼では夜にはどれが何番目の信号なのか分からないので、大事を取ってなるべく運転しないようにしている。運転免許は更新できている。
昨年2015年の「腹部大動脈瘤破裂」には参った。8月18日から翌日まで救急車で4つの病院を転院し(病名が特定できなかったのだ)、20日に心臓血管外科で、5時間かかって「大動脈瘤切断術」と「人工血管置換術」の手術を受けた。抜糸の時に、初めて手術痕を見ると、20㎝くらいお腹を切られていたことが分かった。それより、手術後、体も足も動かなくなったことと、2日目には呼吸困難になり、人工呼吸器につなげられ、身動き不能になったのは辛かった。水も飲めないし食べることもできないし、話すこともできない。意思疎通は手振りか筆談だ。右首に「中心静脈カテーテル」を留置し、そこから栄養・薬剤を点滴する。要は「太い」点滴だ。まあ、命が助かったのは、奇跡的と言われた。動脈瘤破裂から、病院に着くまでに50%が死亡し、手術室に入るまでにさらに50%が死亡し、手術での死亡率は50%と言うのだから、生存率は10%程度ということになる。
だが体が動かなくなったのは本当に難儀した。何とか動くのは頭と腕だけで、リハビリはかなり早く始まったのだが、最初は、ベッドから腕の力で起き上がって座ること。次は、立って体重計に乗ること。そして、車椅子に自分で座ること。次に、点滴棒につかまりながら歩くこと。これらを尿道カテーテル、点滴、酸素ボンベによる人工呼吸器をつけながらやる。全部理学療法士さんが措置してくれるのだが、大変なことだと思った。大便も困った。動けないから紙おむつで、その中にして下さいと言われるのだが、ベッドの中で排便するというのはこれまでしたことがないので、何か倫理的に?できないのだ。やっと排便できるようになりナースコールで看護師さんを呼ぶとすぐに措置してくれる。介護とはこういうものかと思った。尿道にカテーテルを入れられた尿の方は勝手に出て袋に溜まってくれるので、あまり気にしたことは無かった。看護師、医師は定期的に観察していたが。人工呼吸器、尿管や点滴から離れることができたのは、10日ほど後のことだったか。
手術を受けた病院は、急性期病棟が主だったので、1ヶ月ほどで転院し、さらにリハビリを続けた。最初は、まだ車椅子、歩行器だったように思う。その後、杖で歩けるようになって、階段昇降や外回りもできるようになってから退院した。
帰宅後も、病気休職許可を貰い、最初は杖を使って歩行のリハビリを続けて、1月から復職した。
もう杖は使っていないが、腰の腸腰筋の中に出来た血腫はまだ溶けておらず鎮痛剤のロキソプロフェンナトリウムを1日3回服用している。朝起きたときなどは、薬の効果が無くなっているのか、腰が痛くてびっこを引いて歩いている。また足の筋力が衰えているので、職員室のある2階から4階までの階段昇降は堪える。1年生の1組から5組までを教えているので、週4時間の授業だから、1日平均20/5で4時間、実際は5時間の日もあり、辛い。校務もある。
ガン患者となり治癒しても社会復帰できるのは、3人に2人程度という報道もあるが、その他の多くの病気も経験したわたしはもう少し休息が欲しい。社会復帰も体と精神の健康状態による。
2010年の「中咽頭癌」の放射線と抗癌剤による治療後、唾液の分泌が良くないので常に氷水を入れた水筒を持ち歩いているし、味覚も落ちた。それでも、退院後は味覚が0だったのだが、今では70%位に回復しただろうか。また、治療中は胃瘻を通した栄養剤の点滴が後半長く続いたせいか、胃袋が小さくなり、口から食べられるようになっても量が減った。以前の半分ほどか。家族で外食に行っても、丼物でも何でも半分しか食べられないので、半分は最初から分けて食べて貰う。
2013年、放射線治療の後遺症と言える「左下顎放射線性骨髄炎」で、左下顎の一部を離断した影響で、その部分の神経が無くなり知覚が消失した。また、舌の左三分の一ほどが麻痺するようになり、食事の咀嚼と発声に苦労するようになった。これは、時間が経っても治らないだろう。口もあまり開かなくなったので、ハンバーガーは食べられない。合唱もできない。
2009年から発症していた右眼の「中心性漿液性網脈絡膜症」はずっと治らず、2014年にレーザー手術で漿液の漏出点を止めて、その後、症状の進行は無くなったが、右眼の視力は矯正で0.7程度となり、視野中心部の色覚はほとんど失われた。赤・青・黄色の判別ができないのだ。だから、右眼で信号機を見ても、光が着いている位置だけでしか分からない。左目が矯正視力1.5で色覚も正常だから何とかなっているが、右眼では夜にはどれが何番目の信号なのか分からないので、大事を取ってなるべく運転しないようにしている。運転免許は更新できている。
昨年2015年の「腹部大動脈瘤破裂」には参った。8月18日から翌日まで救急車で4つの病院を転院し(病名が特定できなかったのだ)、20日に心臓血管外科で、5時間かかって「大動脈瘤切断術」と「人工血管置換術」の手術を受けた。抜糸の時に、初めて手術痕を見ると、20㎝くらいお腹を切られていたことが分かった。それより、手術後、体も足も動かなくなったことと、2日目には呼吸困難になり、人工呼吸器につなげられ、身動き不能になったのは辛かった。水も飲めないし食べることもできないし、話すこともできない。意思疎通は手振りか筆談だ。右首に「中心静脈カテーテル」を留置し、そこから栄養・薬剤を点滴する。要は「太い」点滴だ。まあ、命が助かったのは、奇跡的と言われた。動脈瘤破裂から、病院に着くまでに50%が死亡し、手術室に入るまでにさらに50%が死亡し、手術での死亡率は50%と言うのだから、生存率は10%程度ということになる。
だが体が動かなくなったのは本当に難儀した。何とか動くのは頭と腕だけで、リハビリはかなり早く始まったのだが、最初は、ベッドから腕の力で起き上がって座ること。次は、立って体重計に乗ること。そして、車椅子に自分で座ること。次に、点滴棒につかまりながら歩くこと。これらを尿道カテーテル、点滴、酸素ボンベによる人工呼吸器をつけながらやる。全部理学療法士さんが措置してくれるのだが、大変なことだと思った。大便も困った。動けないから紙おむつで、その中にして下さいと言われるのだが、ベッドの中で排便するというのはこれまでしたことがないので、何か倫理的に?できないのだ。やっと排便できるようになりナースコールで看護師さんを呼ぶとすぐに措置してくれる。介護とはこういうものかと思った。尿道にカテーテルを入れられた尿の方は勝手に出て袋に溜まってくれるので、あまり気にしたことは無かった。看護師、医師は定期的に観察していたが。人工呼吸器、尿管や点滴から離れることができたのは、10日ほど後のことだったか。
手術を受けた病院は、急性期病棟が主だったので、1ヶ月ほどで転院し、さらにリハビリを続けた。最初は、まだ車椅子、歩行器だったように思う。その後、杖で歩けるようになって、階段昇降や外回りもできるようになってから退院した。
帰宅後も、病気休職許可を貰い、最初は杖を使って歩行のリハビリを続けて、1月から復職した。
もう杖は使っていないが、腰の腸腰筋の中に出来た血腫はまだ溶けておらず鎮痛剤のロキソプロフェンナトリウムを1日3回服用している。朝起きたときなどは、薬の効果が無くなっているのか、腰が痛くてびっこを引いて歩いている。また足の筋力が衰えているので、職員室のある2階から4階までの階段昇降は堪える。1年生の1組から5組までを教えているので、週4時間の授業だから、1日平均20/5で4時間、実際は5時間の日もあり、辛い。校務もある。
ガン患者となり治癒しても社会復帰できるのは、3人に2人程度という報道もあるが、その他の多くの病気も経験したわたしはもう少し休息が欲しい。社会復帰も体と精神の健康状態による。
tyuuriさんのブログはずっと呼んでますけど、こうして全部並べると、改めてすごい病歴ですよね。生還しているのは本当に何よりです。
by shira (2016-08-12 22:36)
>shiraさん、nice&コメントありがとうございます。
先日定期診察で行った大学病院の消化器内科の先生からは、「たくさん病気して、良く生き延びていますね」と言われましたよ。この先生には、2011年に食道癌の手術をしてもらったのですが。
by tyuuri (2016-08-13 17:53)
生きているって素晴らしいと思います。
by bashy0322 (2016-08-15 13:17)
>bashyさん、nice&コメントありがとうございます。
そうですね。わたしの大学時代の恩師である猪野教授は、57歳で心臓病で逝去されましたから、わたしがもうその年を越えたのが嘘のようです。ただ、「生きているだけ」では素晴らしくないと思っています。
by tyuuri (2016-08-15 17:01)
私が大学にいたときの先生は、もう全員退官されてしまいました。恩師に思いをはせると、そういう気持ちになりますね。
by bashy0322 (2016-08-16 10:23)
>yamさん、niceありがとうございます。
by tyuuri (2016-08-16 16:15)
こんにちは
いろいろ大変な思いをされているのですね、、、、
1年生の授業をされていらっしゃるのですね。
2階から4階まで行くのはさぞかし大変でしょう。
そこの学校にはエレベーターはないのですか?
まあ頑張って下さい これからも応援しますよ!
by ある中学校の先生 (2016-09-08 20:56)
続けて聞きたいことがありますv
そんなに大変な思いをして4階まであがって
まで1年生のことが好きなのですか?
お返事待ってます
by ある学校の教師 (2016-09-08 21:29)
担当学年は管理職に一任していますので、管理職の考え方ですね。
by tyuuri (2016-09-08 21:54)